テレビ東京の歴史番組「新説!?日本ミステリー」が、「織田信長を殺したのはイエズス会だった」と紹介しました。
本能寺の変は、1582年6月21日の午前3時ごろに明智光秀が謀反を起こし、1万3000の兵で本能寺を襲撃した事件です。明智光秀に襲撃された織田信長は本能寺に火を放ち、自害しましたとされています。
明智光秀が亀山城を出発したのは午後8時ごろで、亀山城から本能寺まで、約20Km離れている。明智光秀の軍は7時間で20kmを進軍したことになる。
当時の甲冑の当世具足の重さは30kgはあった。また、山科言経の日記「言経卿記」には、本能寺の前日まで雨が降り続けていたことが記録されている。増水した桂川を渡るのは困難でだった。また、老ノ坂も相当足場が悪かった。
このような状況で、30kgの装備を着けた1万3千の兵が7時間で老ノ坂(峠)や桂川もある20kmを移動することは不可能である。
イエズス会のルイス・フロイスの「日本史」には、織田信長の殺害現場を見ていたかのような詳細な記述(下記)がる。
「信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。」
歴史研究家は佐宗邦皇は、これはイエズス会が織田信長を殺害した証拠だと指摘した。
安土城跡の信長廟には盆山(ぼんさん)がある。盆山は自分は神を超える存在であることを示すもので、織田信長は盆山を参拝させていた。
イエズス会はデウスのみを神としており、神になろうとした織田信長に危機感を感じたイエズス会は織田信長を殺害した。その様子がルイス・フロイスの「日本史」に記述(下記)されている。
「信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」
発掘調査から、本能寺は掘りに囲まれた40m四方の敷地で、建物は小さな武家屋敷で、警護の兵は居なかった事が明らかとなっている。
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