長篠の戦いはなかった

織田信長が大量の鉄砲部隊を投入して、武田勝頼軍を破ったとする「長篠の戦い(長篠の合戦)」は、豊臣秀吉が捏造(ねつぞう)した歴史です。
■長篠の戦いとは
1575年6月、愛知県新城市長篠で、織田信長・徳川家康連合軍3万5000人と武田勝頼軍1万5000人が8時間にわたり争い、織田信長・徳川家康連合軍で6000人、武田軍で1万人以上の死者を出した戦い。織田信長が当時の最新兵器だった鉄砲3000丁を投入し、「三段打ち」戦法を使用したとして知られている。
■長篠の戦いがなかった根拠1
長篠の戦いは「信長公記」にしか記述されていない。
■長篠の戦いがなかった根拠2
奈良の僧侶の日記「多聞院日記」には、「甲斐国衆千人余討死」と記載されている。武田軍の死者1000人程度の戦はあったが、死者1万人を超えるような大規模な戦は無かった。
■長篠の戦いがなかった根拠3
江戸幕府の公式記録「徳川実紀」には、長篠の戦いは「徳川が主で織田は加勢である」と記述されている。長篠合戦図屏風にも馬防柵の前で徳川軍が活躍しているところが描かれている。
■織田信長の鉄砲隊は存在してい根拠1
長篠の戦いでは鉄砲3000丁が用意されていた。仮に1丁につき100発撃ったとすると、30万発の弾を撃った事になる。しかし、戦場となった場所からは鉄砲の弾は合計12発しか発見されていない。
■織田信長の鉄砲隊は存在してい根拠2
織田信長は、武田軍の侵入を防ぐために2メートルにもわたる馬防柵を築き、鉄砲隊は馬防柵から鉄砲を撃っていた。しかし、武田軍の武将が戦死した場所は、馬防柵から500メートル以上離れた場所ばかりだった。当時の鉄砲の射程は100メートル程度だったため、鉄砲の弾はそこまで届かない。
■鉄砲隊は存在していなかった根拠3
織田信長軍に大規模な鉄砲隊が存在していたのなら、長篠の戦い以降も勝利を重ねていたはず。1557年11月に上杉謙信軍と織田信長軍が戦った「手取川の戦い」で、織田信長軍は大敗している。また、鉄砲隊に関する記述も無い。1582年3月の「天目山の戦い」では織田信長軍が武田勝頼軍に勝利したが、鉄砲隊の記述は無い。
■武田騎馬隊は存在していなかった根拠1
武田軍が使用していた馬は「木曽馬」である。地面から背までの高さは、サラブレットが約155cmなのに対して、木曽馬は約133cmしかない。また木曽馬の走るスピードは子供が走る程度の速さで遅い。
■武田騎馬隊は存在していなかった根拠2
武田家の軍記「甲陽軍鑑」も「馬に乗っているのは大将と主だった武将、部隊の中に7~8人」と記述されている。武田軍が大規模な騎馬隊を編制していた記録は無い。
■武田騎馬隊は存在していなかった根拠3
武田騎馬隊が始めて記述されたのは、日本陸軍が1942年に日本上の主な戦いの内容をまとめた「大日本戦史」である。日本陸軍が「武田方の多くは騎馬」と歴史をねつ造した。
■結論
長篠の合戦が登場する唯一の記録「信長公記」は、豊臣秀吉が家臣に書かせたものである。武田軍と徳川軍が争った小規模な戦いはあったが、徳川軍が活躍したため、豊臣秀吉がライバル徳川家康の活躍を隠すために長篠の戦いをねつ造したに過ぎない。

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