千利休は豊臣秀吉を暗殺しようとしていた

歴史番組「新説!?日本ミステリー」が、千利休は徳川家康のスパイで、豊臣秀吉を暗殺しようとしていたと紹介していました。

千利休の切腹

豊臣秀吉は重要な茶会の幹事を千利休に任せ、自分の城に住まわせるなど、千利休に絶対的な信頼を寄せていた。しかし、豊臣秀吉は千利休に切腹を命じた。その後、豊臣秀吉は千利休の首を京都市上京区の一条戻橋に晒した。(利休居士伝書)

専門家は、絶対的に信頼を寄せていた人物に切腹を命じ、さらし首にまでするというのは相当な理由があったのではないかと指摘する。

千利休が豊臣秀吉の暗殺に失敗

東京芸術大学創立者である岡倉天心の著書「茶の本」に、千利休が豊臣秀吉の暗殺に失敗したと書かれている。

豊臣秀長の死

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が利休の切腹す1ヶ月前の1951年1月22日に死亡した。専門家によると、「医学天正記」に書かれている豊臣秀長の症状などから推測すると胃腸系のヒ素中毒の可能性がある。(千利休切腹日は1951年2月28日)

千利休の茶室

千利休の茶室は広さ2畳の密室であるため、毒殺を行うのに向いている。

利害関係

豊臣秀吉が死亡すれば、徳川家康が得をする。1950年に豊臣秀吉は徳川家康を三河から関東へ移動させた。つまり、豊臣秀吉は徳川家康を遠ざけようとした。

徳川家康と千利休との関係

千利休が茶会を開いた詳細が書かれている文書「利休百会記」によると、千利休が切腹をする1ヶ月前、1月24日に開いた最後の茶会は、徳川家康と2人きりであった。

千利休の供養塔(お墓)が在る大阪府堺市の南宗寺の境内には、徳川家康のお墓も在る。

徳川家康の動向

豊臣秀吉が千利休に切腹を申しつけたさい、各大名が助命嘆願に東奔西走したが、徳川家康は千利休を助けようとしなかった。しかし、千利休の死後、徳川家康は子供達に千利休の家督を継がせるために東奔西走した。(茶話指月集)

専門家は、千利休が徳川家康との関係を話さなかったので、見返りに千利休の子供たちを助けるために動いたと指摘している。

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