織田信長は妹のお市と近親相姦をしており、浅井3姉妹の長女・茶々(後の淀殿)は、織田信長とお市の近親相姦によって生まれた子供だという説があります。
織田信長は、地元の尾張では「うつけ者」と呼ばれていましたが、斎藤道三の領地である美濃では「たわけ者」と呼ばれていました。
「うつけ者」も「たわけ者」も愛知県付近の古い方言で、簡単に言えば「ふざけた事をする人」「馬鹿者」という意味です。しかし、「たわけ者」には「近親相姦をしている人」という意味もあるのです。
たわけの語源は、日本最古の歴史書「古事記」に登場する「上通下通婚(おやこたわけ)」だと言われています。「婚」の1字で「たわけ」と読みます。
古事記では母子相姦や親子相姦など4つの近親相姦(上通下通婚)を禁じるほか、馬と性的関係を持つ「馬婚(うまたわけ)」、牛と肉体関係を持つ「牛婚(うしたわけ)」・犬と性行為をする「犬婚(いぬたわけ)」などのいわゆる「獣姦(じゅうかん)」も戒めています。
美濃の民は織田信長がお市と近親相姦をしていることを知っていたので、織田信長のことを「たわけ者」と呼んでいたのです。
そして、織田信長とお市の近親相姦の結果、生まれたのが茶々(淀殿)だとされています。
ただ、お市の出生は不明で、織田信長と実の兄弟ではなく、従兄弟だったという説もあり、血の繋がった兄と妹の関係ではない可能性もあります。
さて、お市は1567年に織田信長の命により、近江の浅井長政の元へと嫁ぎます。
お市の娘・茶々(淀殿)の出生には諸説があるのですが、古文書「翁草」によると茶々(淀殿)は49歳で死亡しているので、逆算するとお市が浅井長政に嫁ぐ前の1566年に生まれているのです。
また、お市が浅井長政に嫁いだ後の1569年に茶々(淀殿)が生まれたという説もあるのですが、浅井三代記には織田信長が1568年に浅井家を訪れ、お市と2人きりで1晩を過ごしたという記録も残っており、茶々(淀殿)はこの時に受精したという説もあります。
さらに、浅井三代記に茶々(淀殿)の出生についての記録が無いうえ、浅井家の菩提寺である滋賀県長浜市にある徳勝寺には、浅井3姉妹のうち、次女・お初(常高院)と3女・お江与(崇源院)の位牌が在るにもかかわらず、長女・茶々(淀殿)の位牌が無いのです。
これは、茶々(淀殿)が浅井家の人間ではないことを意味しているのです。つまり、茶々(淀殿)はお市と織田信長の間に生まれた子供だという可能性が非常に大きいのです。
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次女なのに初だからね
次女が「お初」なのも、疑問を持たれる原因ですね。
茶々は気性の強さから氾濫する河・淀川に例えられ、「淀殿」と呼ばれる様になりましたが、織田信長の娘なら納得してしまいそうです。