天草四郎は秀吉の孫だった

テレビ東京系歴史番組「新説日本歴史ミステリー」が、天草四郎は秀吉の孫で、フィリピンで豊臣第2王朝を築いたと紹介しました。

天草四郎が豊臣秀吉の孫である

天草四郎が豊臣家の人間であり、豊臣秀頼の子だと、幕府側の書物「耶蘇天誅記」に記載されている。

豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が大阪夏の陣で大阪城から密かに九州に逃れ、豊臣秀頼が九州で作った子供が天草四郎である。豊臣秀頼は大阪城で自害したとされているが、死体が見つかっていない。

豊臣秀頼は九州へ逃れていた

秀吉の正室・おねの子孫に「大阪城の抜け道から船で薩摩へ逃げた」と代々伝わっている。鹿児島県鹿児島市谷山地区の民家の庭に豊臣秀頼の墓がある。

天草四郎が豊臣家の血を引く根拠

幕府軍は天草四郎の顔を知らなかったので、島原の乱でキリシタン側の兵を一人残らず惨殺した。これは豊臣家の血を確実に根絶やしにするためである。

天草四郎がフィリピンへ逃げた根拠

天草四郎の母親が「四朗は南蛮がルソン(フィリピン)に逃げたであろう」と証言している。原城の井戸から場外に続く人口の抜け道があり、天草四郎は抜け道を使ってフィリピンへ逃げた。

豊臣家とルソンの接点

豊臣家はルソン壺を売買して莫大な富を得た。豊臣秀吉の家臣でキリシタン大名の高山右近がルソンで日本人街を作った。豊臣秀吉は「ルソンは我が国」と言った。

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