このページは高島ちさ子とダウン症の姉・未知子の物語の後編です。前編の「高島ちさ子とダウン症の姉」からご覧下さい。
ダウン症の姉・未知子を守るため、喧嘩に明け暮れる一方で、高島ちさ子はバイオリンを習いたいと言い続け、ようやく6歳の時にバイオリンを習うことができるようになった。
高島ちさ子はバイオリンを始めると、ダウン症の姉・未知子から松田聖子の曲が聴きたいとリクエストされた。
高島ちさ子はバイオリンでポップスを弾くことに抵抗があったが、姉の未知子を喜ばせるためにポップスを弾くようになった。リクエストした曲を弾けないと姉の未知子は悲しい顔をするので、高島ちさ子はポップスのレパートリーを増やすためにポップスを弾く練習もしていた。
高島ちさ子はバイオリンの道に進むため、桐朋女子高校の音楽科に入学し、大学は桐朋学園大学の音楽科へ進学した。
高島ちさ子の父・弘之の兄は俳優の高島忠夫で、高島ちさ子は高嶋政宏・高嶋政伸兄妹といとこの関係にあったたため、周りの人間は高島ちさ子は芸能界入りするものと考えていた。
しかし、芸能界に興味の無かった高島ちさ子は、正統派クラシックの道を進むために渡米して、1991年に音楽の名門イエール大学音楽学部大学院へ入学。1994年にはマイアミのプロオーケストラ「ニュー・ワールド・シンフォニー」へ入団していた。
ところが、プロのバイオリニストとしてスタートした矢先、父・弘之から連絡があり帰国。日本へ帰ると、後藤久美子の従兄弟・大藤桂子と共にユニット「チョコレート・ファッション」を結成し、父親の務める東芝EMIからデビューすることが決定したいた。
元々、芸能界に興味の無かった高島ちさ子は直ぐに、ユニット「チョコレート・ファッション」を解散。再び正統派クラシックの道を歩み始めたが、実績のない高島ちさ子にクラシックでの仕事はほとんどなかった。
本来ならアメリカのオーケストラで楽しい生活を送っていたはずなのに、父親に呼び戻されて日本で活動することになってしまった高島ちさ子は、日本での活動が上手く行かないために荒れに荒れ、父親や母親を罵倒する日々が続いていた。
当時の日本のクラシック界は誰も知らないようなマイナーな曲を弾くことが主流となっていたが、高島ちさ子は「誰も知らない人間が誰も知らない曲を弾いても誰も聞かない」と考え、誰でも知っているポップスを弾こうと決意した。
このようななか、「めざましテレビ」のインタビューを受けたさい、軽部真一アナウンサーからコンサートの誘いを受け、新しいスタイルのコンサートに挑戦した。
高島ちさ子は「めざましクラシックコンサート」で、クラシックではタブーとなっていたポップスを披露して、大盛況に納め、「クラシック界の革命児」と呼ばれるようになるのであった。
高島ちさ子が日本で成功できたのは、小さい頃に松田聖子の曲が聴きたいとリクエストしたダウン症の姉・未知子のおかげだった。
一方、「20歳まで生きられない」と宣告されたダウン症の姉・未知子は障害者就労支援センターへ通いながら自立するために努力して、障害者では珍しい一般企業への就職を勝ち取り、衣類販売店「ギャップ」に就職。6年間、無遅刻無欠勤で勤め上げ、ギャップを退社。今なお健在である。
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