テレビ東京系番組「新説!?日本ミステリー」が、「元寇(げんこう)はなかった」と紹介しました。
元寇(蒙古襲来)とは、鎌倉時代に元(モンゴル帝国)が2度にわたり日本侵略を試みた戦争の総称で、1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)と呼ぶ。文永の役では神風が吹き、元軍が全滅したとされている。
元寇で神風が起こったとされる根拠は、八幡愚童訓に「朝になって海を見てみると的の船は全ていなくなっていた」と記述されているのみである。
竹崎末長が元寇を描かせた「蒙古襲来絵詞」には、元の兵士が逃げまどう姿が描かれている。教科書に掲載されている「蒙古襲来絵詞」の「鎌倉兵を襲う3人の蒙古兵」は「蒙古襲来絵詞」の1部分で、鎌倉兵を襲う3人の蒙古兵は江戸幕府が書き足したものである。
元の歴史書である元史には「至元14年(1277年)日本の商人が金をもってきて銅銭に替えて欲しいということを許した」と記述されており、元寇の最中に日本と元は貿易をしていた。
当時、元は南宋(中国南部)を攻めており、日本を攻め落とすほどの兵力は無かった。また、蒙古国牒状には「願わくば使者を行き来させ、親睦を深めようではないか」記述されており、元は日本に国書を送り親睦を深めようとしていた。
元は騎馬民族で船を造る技術は無く、船を造ったのは高麗である。高麗史には高麗が元に日本侵攻を執拗に進言していたことが記述されている。高麗が船900隻や食料を用意したほか、日本を攻めた蒙古軍の3分2は高麗兵であり、実質的に日本を攻めたのは高麗だった。
高麗と貿易をしていた若狭地方の比企一族が、北条一族に復讐するために高麗に対して日本侵攻を依頼した。比企一族は朝鮮半島から渡来した一族で、鎌倉時代には源頼朝の右腕として活躍し、北条一族と並ぶニ大勢力であった。しかし、比企一族は北条政子により頭首を暗殺されれて没落していった。このため、比企一族は北条一族に恨みを持っていた。
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