テレビ東京の歴史番組「新説!?日本ミステリー」が、645年に起こった「大化の改新」はなかったと紹介しました。
大化の改新は日本書紀にしか記述されていない。他の文献には記されておらず、大化の改新の根拠は日本書紀の記述のみである。
日本書紀には「蘇我入鹿(そがのいるか)は1人で計画して聖徳太子を殺害した」「蘇我入鹿が国中の民を集めて墓を作らせた」と記述されている。この2点から蘇我入鹿は逆臣とされた。
奈良県橿原市にある入鹿神社には、蘇我入鹿の木製座像があり、ご神体となって祭られている。逆臣が神として祭られるとは考えられない。
上宮聖徳太子伝・補闕記(ほけつき)には「蘇我入鹿は軽皇子(かるのみこ)や大伴馬甘(おおとものうまかい)から6人で共謀して聖徳太子を殺害した」と記述されており、日本書紀に記述されているような蘇我入鹿による単独犯とは異なる。
日本書紀に蘇我入鹿が作った記述される古墳は、奈良県御所市にある水泥古墳である。水泥古墳は直径14m・高さ5mの円分で内部も狭く、日本書紀に記述されているように国中の民を集めて古墳を作ったとは考えにくい。
藤原宮から700年に使用されていた荷札木簡が出土した。荷札木簡には市や区にあたる「評」という単位が使用されていた。
しかし、日本書紀には「評」ではなく「群」という単位が使用されていた。群は701年の大宝律令により制定された単位で、645年の大化の改新時点では、「群」という単位は存在していない。
日本書紀の大化の改新の文章と大宝律令の文章に同じ文章が複数ある。古代史の専門家によると、日本書紀は大宝律令をコピーしたもので、大化の改新の様な政治革命は無かったことのこと。
日本書紀の研究家は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が、父親の中臣鎌足の業績を称えるために蘇我入鹿を逆臣に仕立て上げて、大化の改新をねつ造したと指摘した。
藤原不比等は日本書紀を編さんした人物で、中臣鎌足の活躍により天皇家が復権したというストーリーを作り上げたという。事実、藤原不比等は天皇家の後ろ盾を得て、右大臣にまで出世し、藤原不比等の子供達は朝廷を牛耳るまでに繁栄している。
多武士峯縁起絵巻(1668年)に描かれた大化の改新には、平安時代の服装(十二単など)をした人物が描かれており、645年時代の服装では無い。
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