ドラマ『この世でいちばん大事な「カネ」の話』の原作となる漫画家・西原理恵子の自伝『この世でいちばん大事な「カネ」の話』のあらすじとネタバレ後編です。
西原理恵子は東京・立川にある美術専門予備校に通いながら、美術大学を目指した。しかし、予備校では最下位だった。絵を描くことは好きだったが、絵を褒められた記憶もなく、自分の実力を思い知らされた。
その一方で、出版社への売り込みを開始した。最下位でも最下位なりの戦い方があった。何百社と出版社を廻って、仕事を貰っていると、明るい性格とコメントを加えた独自のイラストが受けて、アダルト雑誌を中心に挿絵の仕事が舞い込むようになっていた。
美大に合格しても出版者への売り込みを続けた。母子家庭の育英基金も含めて仕送りは月7万円あったが、仕送りは家賃や光熱費や食費に消え、ほとんど残らなかった。
西原理恵子は様々なアルバイトをしながら、アダルト雑誌の挿絵を中心に仕事を引き受けて、イラストの仕事で月に5万円を稼ぐようになっていた。
やがて、西原理恵子のイラストが大手漫画雑誌「週刊ヤングサンデー」の編集者の目にとまり、大学3年生(24歳)のとき、週刊誌「週刊ヤングサンデー」から漫画「ちくろ幼稚園」でデビューすることとなった。
「ちくろ幼稚園」でデビューしたことで、「絵の仕事で月に30万円稼ぐ」という目標を達成し、予備校で最下位だった西原理恵子が勝ち組への階段を上り始めるのだった。
しかし、大きな落とし穴があった。西原理恵子は、ギャンブル漫画「まあじゃんほうろうき」を書くために、麻雀を始めた。これをきっかけに、ギャンブルにのめり込むようになり、10年間で計5000万円を失うことになった。
西原理恵子がギャンブル中毒から抜け出すきっかけとなったのは、後に結婚する戦場カメラマン鴨志田穣(かもしだ・ゆたか)との出会いだった。
鴨志田穣の「どんなギャンブルより、戦場の方がよっぽど大きなギャンブルだよ。だって、人の生き死にがかかっているのだから」という言葉で、西原理恵子のギャンブル熱は冷めていった。やがて、西原理恵子は鴨志田穣と結婚した。
鴨志田穣は酒を飲んで家族を罵倒する父親を「殺してやりたい」と思うほど憎んでいた。しかし、鴨志田穣は結婚後にアルコール中毒になり、家族を罵るようになってしまった。
西原理恵子の実の父親もアルコール中毒だった。西原理恵子も母親が選んだ道と同じ、離婚という道を選んだ。それは子供への負の連鎖を断ち切るための苦渋の決断だった。
離婚後、鴨志田穣は病気と向き合い、病院でアルコール中毒を治療し、家族の元へ戻ってきた。鴨志田穣は西原理恵子らと再び同居を開始した。同居から半年後に鴨志田穣は腎癌で死んでしまった。
西原理恵子は鴨志田穣を看取ることができ、子供達にも父親の良い記憶が残ったとしている。
そして、「お金には、そうやって家族を嵐から守ってあげる力があるんだよ。いざというとき、安心な場所に居させてあげたい。そう思うなら、働きなさい。働いてお金を稼ぎなさい。そうして強くなりなさい。それが大人になるっていうことだと思う。」と綴っている。
Copyright(C)2012年6月 All Rights Reserved.